旅行の始まりは2018年8月末。札幌が大きな地震に見舞われる、ほんの1週間ほど前のことだった。
エコノミー席におとなしく座って暇をつぶしていると、飛行機が着陸態勢に入ったとアナウンスがある。往路の航空会社は初めて使用するAIRDOで、キャッチコピーは「北海道の翼」。羽田空港から就航しているのがとてもありがたい。
成田は、私の自宅からだと遠いのだ。
ふと、窓から外の景色を見下ろして思った。海がどこまでも昏い。青森県と北海道を分かつ津軽海峡。当時の天気は小雨で、水面を叩く雨粒たちがその印象をさらに深く、得体のしれないものにしていたような気がする。
8月末の関東は例年通りの猛暑だったから、現地の気温の低さには大きな期待が持てた。きっとこれから数日は流れる汗に煩わされず、比較的快適に過ごせるだろう。
母曰く、私は幼少期からこの島の土を何度も踏んだことがあるらしい。自分の中にその記憶は薄いどころかほとんど残っておらず、感覚としては今回の旅行が最初の北海道上陸経験ということで、非常にわくわくしていた。広大な北の島。また、今からおよそ2年前、大阪の国立民族学博物館を訪れた際、アイヌ民族の伝統的な文様の線の美しさに心を惹かれたのも北海道への興味に繋がっている。
参考サイト:
Good Day 北海道(北海道観光公式サイト)
AKARENGA あかれんが(北海道の歴史・文化・情報サイト)
Sapporo Factory(サッポロファクトリー公式サイト)
余談だが、この旅行記録をつける際のBGMは、アニメ版《ゴールデンカムイ》の第一期オープニングテーマ "Winding Road" だった。
MAN WITH A MISSIONによる楽曲である。北海道が作品の舞台である影響もあり、次回に訪れる際はぜひ、旧網走監獄のほうにも足を運んでみようと画策している。
特にこの監獄食を試してみたい。
また、上記に関連して以前にこんなツイートをしたことがある。
層状に薄く剥がれたり折れたりしていた爪が、実家に帰ってしばらくしてから嘘のように綺麗に戻った。払う家賃のない分、食費を切り詰める必要がなく、毎日まともな食事と栄養を摂取できるようになったからだと感じる。一時期は網走刑務所の監獄食よりも貧相なものしか食べていなかった。かなり笑える。
— 千野 (@hirose_chino) September 21, 2018
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空港から市内へ
北海道にある空の玄関のうちのひとつ、新千歳空港から札幌駅へと出るのにJR線を使った。
車内では立って窓の外の景色を眺めていたのだが、家々の持つ屋根の形や仕組みの中には関東では見かけないものも多い。なかでも、一見すると単なる平らな屋根なのに、内側に傾斜のついているタイプのものを珍しく思った。そこで帰宅後に調べたところ、それらが一般に「無落雪屋根」と呼ばれているものだと判明する。
以下の記事でも紹介されていた。
以前の私の中にあったのは、北国の家の屋根には大きな傾斜があるという認識だった。過剰な積雪による家屋の損傷や倒壊を防ぐために、降った雪が地面へと滑り落ちていくような仕組みが通常の対策だろう、と。
ところがそれは、いわゆる豪雪地帯の住宅街――特に家屋の密集している地域で用いられる場合には、重大な事故を引き起こす可能性も孕んでいた。
大量の雪が屋根を滑り落ち、隣接する敷地へと侵攻してしまったり、玄関から外へ出てきた誰かに直撃したりすれば惨事に繋がるのは明白だ。そんな中で考案されたこの無落雪屋根は、雪を地面に極力落とさず、屋根上で溶かした雪を少しずつ外に流すことのできる装置。屋根に限らず、立っている住宅の特徴を把握することでその土地をより深く知れるのがおもしろい。
その後もコトコトと電車に揺られ続けていると、不意にスピードを落とし急停車した。少しの間を置いたのちに流れたのは、「先ほどの急ブレーキは、線路の前をシカが横切ったためのものです。シカは列車に衝突する前に逃げております」という放送。和んでしまう。シカ肉が食べたい。
ここから札幌を含めた3つの街と、そこかしこに見られる諸外国の影響や、北海道特有の事物と歴史を辿る散歩をはじめた。
札幌
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北海道庁旧本庁舎
堂々たる佇まいが目を引く建物は、通称《赤レンガ》。ここにはもともと札幌開拓使の本庁が設置されており、焼失してしまった跡地に建てられたのが、北海道庁の当時の本庁舎であり現在の建物なのだ。
屋根の部分から出ているいくつかの窓の上には、かつての北辰旗のシンボルでもあった「赤い星」があしらわれている。
これは五稜星――北極星をモチーフにして考案した図案に由来するもの。シンプルで美しいと思う。現在の北海道旗にはそれを再解釈した、北海道を代表するデザイナー栗谷川健一による、七光星をあしらった濃紺の地の旗が採用されている。
開拓使の赤い星を外観に持つ建物は多い。例えば後述する豊平館や旧サッポロビール工場(現在は博物館)、札幌の時計台などだ。札幌市のホームページ『星のある建物たち』にも詳細が記載されているので、気になる人はぜひ覗いてみて欲しい。北海道を散歩する際にはこの星に意識を向けてみると、まるで宝探しでもしているかのような気分になれるので、非常に楽しい。
思えば村上春樹著の「羊をめぐる冒険」では、背中に星のマークがついた羊を追って、北海道へと渡った主人公が登場する。もしかすると、著者もこの作品を執筆する以前に自分と似たような思いを抱いたことがあったのだろうか? もちろん真偽のほどは分からないが、そのような気がしてならない。
19世紀に建造されたこの庁舎には、荘厳さと複雑さ・整合性の特徴を併せ持つ、アメリカ風ネオ・バロック様式が採用されている。規則正しく並んでいる窓もその様式に則っているのを外観から確認できた。これに限らず、北海道の開拓にあたっては、顧問としてアメリカから招かれたお雇い外国人たちの影響が端々に見られる。
当時、古くは蝦夷地と呼ばれていた北海道を支配下に置くことでロシアに対する軍備を強化しようと、日本幕府は初めに八王子千人同心という一行を送り込んだ。これが開拓使のいわば前身である。不慣れな環境のなかで職務を行うのは非常に困難なもので、計画は頓挫し完遂されることは無かった。
やがて、後の明治時代に取り入れられた西洋式のやり方(特に米国の気候には北海道に近いものもあり、応用の効くものが多くあった)が、現地でどのように動くべきかの大きな指針になり、農業や学業の発展に大きく寄与したのだ。
旧本庁舎の内部へと足を踏み入れると、まず入り口の正面から真っ直ぐに伸びる階段に出迎えられた。
各部屋ごとの展示物も多岐にわたり、開拓使の歴史をはじめ隣国ロシアとの関係と協力の歴史や、アイヌの人々の文化や歴史などをひろく学ぶことのできる資料の数々が展示されている。売店ではシカ肉のレトルトカレーなどといった、少々珍しいお土産も手に入れられそう。
内部に設置されているあるもののことで、ひとつ記憶の片隅に引っかかっているものがある。それが「貴賓(きひん)お手洗い」の存在だ。
きっかけは、建物の中でトイレ周辺の設備は一体どのように保存、もしくは改装されているのか気になり、様子を見てみたことだった。女性用の内部は現代的で至って普通のもの。おそらく男性用も似たような感じなのは想像に難くない。
しかしながら、その間に設置されていた扉の文字は異彩を放っていた。これが、前述した通りの貴賓お手洗いだ。
基本的に締め切られているようで中には入れないが、通常のお手洗いと比べて何か特筆すべきものがあったり、意匠が豪華だったりするのだろうか……? 確かめるすべがないので想像しかできない。自分の日常生活の中ではなかなか見ることのできない設備に出会い、新鮮な気分を味わえた。
旧本庁舎について:北海道庁旧本庁舎|GoodDay北海道
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豊平館
札幌市内には路面電車が通っており、今回はそれを利用してみた。ちなみに札幌中心部の路面電車や地下鉄の駅はSuicaをはじめとする他の地域のICカードに対応しており、とても便利。
中島公園という駅で下車し、公園の敷地内に入っていくとすぐにその姿が見えてきた。
建物の上部に輝くのは赤い星で、この豊平館も、かつての開拓使によって建てられたものだということを静かに示している。
豊平館は1881年に完成したホテルで、明治政府が建てた中では日本で唯一のものであるといわれている。旧本庁舎と同じように見られるのはアメリカの影響。現在では国の重要文化財に指定されており、入館料がかかるが内部の見学もすることができるよう。
私が訪れた時は結婚式などの催しが行われていたので、今回は外部からそっと様子を伺うのみにとどめておいた。
もともとは明治天皇の滞在先として用意されたこの豊平館だが、その後は一般に向けた宿屋や飲食店へと変貌を遂げ、やがて地域住民のための公民館としての役割も果たすようになったという。新しい公民館の建設計画が出た際に、保存のためこの場所に移築されている。二度の大規模な改修工事を経て、今も当時と同じように再現された、鮮やかな明るい青色が美しい。
ちなみに今回この豊平館について調べ、「行幸」という言葉の意味を初めてきちんと知った。その行く先々で民が恩恵(幸)にあずかることから、天皇陛下が外出することや、どこかへ足を運ぶことを指してこのように表現するのだそうだ。言語表現は本当に奥が深い。
豊平館について:豊平館 | 国指定重要文化財
この中島公園内には他にも北海道立文学館や天文台、日本庭園などの見どころがたくさんある。
私は北海道産の山わさび醤油おにぎりを庭園の片隅で頬張っていたのだが、うま味と同じくらいの強烈な辛さに舌と鼻を打ちのめされ、涙目になりながら、水面に浮かぶカモたちをじっと眺めたのも思い出した。
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サッポロビール博物館
ビールというと、真っ先に私の頭に浮かんでくるのはイギリスのパブである。
特にスポーツがテレビ中継される騒がしい日になると、店内に収まりきらなかった人々は、入り口のドアやテラスからはみ出し歩道に立って歓談を始める――彼らのうち、9割の人間の片手にはビールの注がれたグラスかカップが握られている。
実はサッポロビールの創業とイギリスの間には縁が存在しており、言及は避けられない。博物館では、その起源から現在に至るまでの歴史をわかりやすく学ぶことができるのだ。
この建物は、かつて開拓使による最初の麦酒醸造所として建てられた。その責任者に任命された人物の名を、村橋久成という。彼はかつて、薩摩藩から命を受けイギリスへと渡った15人の留学生のうちの一人。当時のロンドンはヴィクトリア朝の真っただ中で、産業と共に最も輝いていたあの都市の姿を直接拝むことができた彼らを羨ましく思う。村橋はその後ノイローゼや鬱のような症状を発症し、2年間の予定だった滞在を切り上げて帰国している。サッポロビールの醸造に関わるのはその後の話だ。
ちなみに当時の日本は鎖国中であったので、外国へと赴くことは固く禁じられていた。彼らは密航者として無許可で海を渡ったことになる。
日本独自のビールを醸造するにあたり、当初はドイツ式の方法を採用しよう、という計画が持ち上がっていたという。場所は北海道ではなく東京にあった官園。政治や経済の中枢にほど近い場所で新しい技術を展示できれば、開拓使の存在感を強め、外部によりよい印象を与えることに繋がるだろうと考え、その実行が検討されていたのだ。
しかしながら、村橋はそれに一石を投じた。
彼はイギリス留学中の経験から、その近隣国ドイツの気候も日本に比べ寒冷なものであることに言及し、国内で最もドイツ式ビール醸造に最適な環境であるのは北海道だという旨の提言をした。これが開拓使や当時の開拓次官である黒田清隆に受け入れられた結果、開拓使麦酒醸造所は東京ではなく、札幌市に建造されたのである。
その判断は功を奏し、結果的に日本でのビール生産の発展を大きく加速させた。村橋久成がいなければ現在のようなサッポロビールは存在しなかったであろうと言っても決して過言ではない。
また、彼はこの醸造所を通じて札幌にさらなる貢献をしたいという強い意志を持っていた。このビールの生産計画は、材料を確保し商品を運搬するための交通手段や、醸造に必要な水や氷を用意しやすい立地などの要素が複雑に絡み合った、一大事業だったのだ。
実際に醸造を開始するにあたっては、正しい知識を持ち、さらにしっかりと訓練された経験豊かな醸造技師が必要とされていた。
雇われたのは外国人ではなく、当時こっそりとイギリスに渡り(当時の法で密航は死罪にも相当するのだが......)、その後は命によりドイツで本場のビール醸造を学んだ中川清兵衛である。博物館に展示されていた現地の学校の卒業証書を見ると、日本人で初めてドイツビールの製法を学んだ、という主旨の文が記載されていた。彼は薩摩からの留学生とは違い、当初から何らかの役目を背負って国を出たわけではない。その目的は謎に包まれている。
彼は密航後、なぜか現地のどこかにある屋敷の小間使いとして働いていたが、客人としてそこを訪れた青木周蔵により偶然にも「発見」され、人材を欲していた彼によってビール醸造学校へ通う資金援助を受けることとなった。しかしながら、そもそも彼がどうしてヨーロッパへの渡航を決めたのか、理由は判然としない。そこが一番気になるのだが。
はじめは何らかの理由があって横浜へと赴き、船に乗ってまずドイツへと入国をしたらしい。その後はイギリスで何年も過ごしたり、再びドイツに戻ったりするなどしている。中川清兵衛、ひょっとすると相当な変わり者であったのかもしれない。もしも現代に生まれていたら一体どのような人生を辿ったのだろうか。機会があればぜひお近づきになりたいものである。
気が付くとサッポロビールそのものの歴史よりも、その周辺で奔走していた、熱意や野望をもった人々の姿に自分が強く惹かれていくのが分かった。
醸造所の歴史:開拓使麦酒醸造所★物語 | サッポロファクトリー
当初の予定よりもだいぶ長くなってしまったので、残りの旅程に含まれていた小樽と余市の散策記録は「後編」として次の記事にします。ここまでお読み下さりありがとうございました。
後編はこちら:
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先の震災で甚大な被害を受けた北海道。
日本政府は2018年10月から、「ふっこう割」という形で人々の呼び込みを支援する予定だそうです。これによって、旅行者は北海道を訪れる際いくらかの費用が割引される場合があります。
応援もかねて、皆様も北の島へと足を運んでみるのはいかがでしょうか? 私はいま網走に行きたくてむずむずしています。
追記:
こちらの記事に掲載していただきました。