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いろいろ記録帖

ブレナム宮殿と羊――世界遺産を訪ねて

 優れたイギリス風景式庭園を手掛けたことで知られる18世紀の環境デザイナー、ランスロット "ケイパビリティ" ブラウンであるが、その代表的な作品群はストウやウォリック城の庭園のみにとどまらない。かの偉大な英国元首相、ウィンストン・チャーチルの生家であり世界遺産にも登録されているブレナム宮殿――オックスフォードシャーの片隅にある、その広大な庭の発展に大きく貢献したのもまた、彼なのだ。

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 また、ストウの造園に関わった建築家ジョン・ヴァンブラは、この宮殿そのものの建築を手掛けており、この二つの場所には共通した点が少なからず存在している。初夏にストウを訪れた際の様子や、風景式庭園の概要についてはぜひ以下を参照されたい。

 ちなみにブレナム宮殿は"Blenheim Palace"と表記されるが、その英語での発音は「ブレニムパレス」に近いものとなる。また、その名前の由来となったスペイン継承戦争のなかの戦いは日本語で「ブレンハイムの戦い」になる(英語では宮殿と同じブレニムと発音する)ので、その点が少しだけ紛らわしい。

 ここでは宮殿と庭園の両方に入場するチケットを購入する場合、英国のナショナルアートパスを所持していれば入場料が30%引きになる。残念ながら庭園のみのチケットでは割引はきかないとのことであった(宮殿に入らず敷地内を散歩するだけの観光客はそこまで多くはないと思うが、念のため)。

参考サイト:

www.blenheimpalace.com(ブレナム宮殿公式サイト)

www.visitwoodstock.co.uk(宮殿のある村ウッドストックについて)

  • 概要

 ブレナム宮殿は、アン女王の時代に始まったマールボロ侯爵の歴代の主要な居住地であり、イングランド内にある宮殿(Palace)と名のついた屋敷のなかでは英国王室に所有されていない唯一のものである。初代侯爵ジョン・チャーチルのために建造され、女王からじきじきに彼へと贈られた。

 ――もちろんこのような説明を受けても、昔の私の理解はあまり深まらなかった。しかし、チャーチルという姓には確かに聞き覚えがあるし、その理由は調べるまでもなく明らかだ。そう、ここはかつて英国の首相を合計2回務め、多くの国民からの尊敬を集めた人物ウィンストン・チャーチルの生家でもあったのだから。今までは意識したことが無かったのだが彼の家系から輩出された政治家の数は多い。そして彼はその人生を通し、ことあるごとに幼少期に過ごしたこのお屋敷での思い出や、周辺の村ウッドストックについて言及することがあった。

 広さは約2000エーカー、内部にある部屋の数は187ほどという規模を誇るブレナム宮殿。大勢の観光客が訪れるようになった現在でも変わらずそこに佇む彼は、一体どのような姿で私達のことを迎えているのだろうか。自分が現地で実際に見てきたものと、調べたことをここに掲載していく。

  • 宮殿とその内部

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鮮やかな天井画

 入場券を購入し、広大な敷地内をしばらく歩いて建物の方へと近づいてゆくと、大きな門と背の高い塀が忽然と現れてくる。まるでくぐって中に入る前からもう探索は始まっているのだとも言いたげな様子だ。また、周辺にあるものを少し観察してみるとわかるが、ストウについて記載した記事の中で言及した「ハハー」という仕掛けが柵の外側に設けられているのがわかった。

 中庭のようになっている正面の空間は確かに美しいけれど、個人的にはこのブレナム宮殿が薄い靄の中にいるとき、斜め上の上空から収められた写真が最もその雰囲気をよく表していると感じる。以下の画像は公式Instagramからの引用だ。

 

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  私はこの薄く黄色のかった石と、周囲の湿潤な緑の色が同じ画面内に存在している様子がとても好きなのだ。

 後でまた記載するが、写真の後方に見える塔の付近には多くの親子羊たちがいて、草を食んでいた。そこでは牧歌的な非常に英国の郊外らしい光景を楽しむことができる。木の柵の中を人間は自由に歩き回ることが可能で、もちろんこちらが近付きすぎると逃げるが、比較的そばで彼らの姿を観察するのは面白い。

 それでは宮殿の内部を覗いてみよう。玄関(と呼ぶのが適当なのかどうかは分からないが……)から足を踏み入れると、光を贅沢に取り入れる、多くの硝子窓が並ぶ壁に囲まれた大広間が眼前に広がった。首をもっと上へと向けると大きな天井画も見える。このような場所を「家」と呼ぶことのできる人々が今でも実際に存在しているとは、やはりにわかには信じがたい、と嘆息した。

 まあ、私も自分自身の部屋はここに勝るとも劣らない豪華なお城のようなものだと思っているが。閑話休題。

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赤い書斎

 ブレナム宮殿は家具や絵画、彫像その他の美術品のコレクションも非常に充実している。次々と現れるそれらを見逃すまいと周囲に目を向け続けていると、首がいくつあっても足りない。

 例えば現在の「赤い書斎」には歴代マールボロ侯爵を中心とした肖像画が複数枚かけられており、なかでも最も大きいものは、第9代目の家族を描いたジョン・サージェントによる油彩画だ。彼はアメリカ人の両親を持つが、生まれたのはイタリアのフィレンツェ。そして亡くなったのは英国のロンドンで、死因は心臓病であったのだという。

 キャンバスの上には9代目侯爵とその妻、2人の息子と飼い犬が存在している。両親に挟まれて立っている方が未来の10代目だ。下の画像の中で、画面中央の近くで毅然と佇んでいるのは婦人であり、一家の大黒柱である侯爵その人ではないということにお気づきだろうか?

 彼は夫人の立っているところより下の段に足をかけ、少しの距離を置いてポーズをとっている。

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Image: Red Drawing Room Portraits | Blenheim Palace

 この表現には、サージェントによるある種の配慮が隠されているのだそうだ。どうやら9代目侯爵は夫人と比べても背が低かったようで、2人を同じ高さに立たせると、それが際立ってしまうという問題があった。彼を一番上に配置しても、下にいるはずの彼女と頭の高さがほぼ同じになってしまうので本末転倒だ。それゆえ画家は侯爵の位置をあえて下段にし、さらに片足を曲げさせることで、本来の身長を鑑賞者に悟らせまいとしたのである。地味な、しかし賢い仕掛けであるといえよう。

赤い書斎と肖像画:Red Drawing Room Portraits

 そして、宮殿内に数ある部屋の中で、もうひとつその素晴らしさが際立っている場所がある。それが《Long Library》と呼ばれている図書室だ。その名の通りに横に長い形状のこの部屋は、イングランドに存在するあらゆる部屋の中でも二番目に長いものであるといわれているそう。

 もともとは絵画ギャラリーを想定して造られたこの場所は、今では前述した9代目侯爵によって集められた10000冊を超える本の棲みかとなっている。いくつかのソファが室内には並んでいるほか窓からは美しい庭園も眺めることができるので、ここで休日の午後など、本を片手に過ごせたらどんなに素晴らしいだろうかと思わずにはいられない。各テーブルの上にはチャーチル一族の写真や家系図なども置かれていた。

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 本が落ちたり持ち去られたりすることのないように、本棚には檻のような意匠の扉が設けられている。それが描くのは幾何学的な美しいパターンだ。余談だが、図書室と言えば、私は所蔵されている本の背表紙に貼ってある分類用の番号シールが妙に好きだった。それは番号が、その本がやがて帰るべき場所をまるで住所のように示しているように思われたから。この本には家があるのだ、と感じることができた。

 また、部屋の突き当りには巨大なオルガンが存在しており、これは1891年に第8代目侯爵夫婦が設置したものであるのだそうだ。その音が響き渡るとき、この部屋の空気はいったいどのような色へとその姿を変えるのだろうか?ぜひその演奏を生で聴いてみたい。

 図書室を出てチャペルの横をすり抜ければ、そこからはブレナム宮殿の持つ別の顔を探索するための、新しい道へと続く扉が開かれている。まずは外に出て、そこから左手の方角、塔のようなものが立っている丘へと目をやってみるといい。チャーチルもかつてこの風景を素朴な筆致と色遣いで油彩画に描いており、宮殿内の展示室でそれらを見ることができた。

  • 各種庭園

 宮殿の敷地内で楽しむことのできる庭園には、整形式庭園と風景式庭園、そしてプレジャー・ガーデンなどがありとても多様だ。

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 図書館からも望むことができたこのウォーターテラスは現在修復作業中のようだが、足場などで隠されてしまっているような部分はわずかで、その大部分を通常通りに鑑賞・散策することができる。修復にかかる予算は約12万ポンドを見込んでいるという。その主な内容は、腐食した石の隙間に水が入り込み、気温の下がった日にそれが凍り内側から石を破壊してしまうのを防ぐというものだそうだ。

 美しく整えられた植え込みの緑が優雅な文様を描いており、この迷路のような緑の通路にそうっと、例えばひよこや子羊のような動物を放ったとすればきっと眼福だろう。もそもそと動き回る彼らの姿を観察してからぜひとも写真に収めたいもの。

 ここから坂道を下ってゆけば、そこは風景式庭園の計画のため、ランスロット・ブラウンによって造られた人口の大きな湖のほとりだ。賑わっているテラスのカフェ付近とはうって変わり人通りが少なくなる。喧騒から離れて深呼吸でもしたくなれば、この辺りに来るといいのかもしれない。

 理由は分からないが、湖畔の小屋にはどこか心惹かれるところがある。

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 長い歩行の果てにやがて微かなせせらぎが聴こえ、その音がどんどん強くなってきた。右手には湖の端。ぽつぽつと顔を出す蓮の花たち。

 そこがこの道のいわば「折り返し地点」だ。カモたちの泳ぎを眺めながら柵に寄りかかって細やかな水飛沫を顔に受けたが、正直なところ、あまりいい匂いはしなかった。

 この滝はケイパビリティ・ブラウンが庭園を改築する際に構想した、おおよそ11年という月日をかけた壮大な計画のもとに設置されたもののうちの一つだ。風景式庭園について考える時はいつも思うことだが、自然現象の結果として発生・形成される森や湖、滝、谷などの地形を、理想の風景を造るため人工的に生み出し配置する、という発想と実行に必要な労力の大きさには感心せざるを得ない。

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ブラウンのキャスケード

 次の目的地へとひとり向かっていると、向かいから来たご婦人に「ここから滝まではどのくらいかかるのかしら?」と聞かれる。おおよそ5分くらいで着くだろうと答えたが、確かにここは、先に待ち受けているものが自分からどの程度の距離にあるのか全く分からなくなってしまうほど広いのだ。さらに15分ほど歩くと、まるで島のように、ぽつんと緑の中に浮かぶ鮮やかな色をした円形の花壇がこちらを待っている。

 季節は初夏、薔薇を愛でるのに最適な季節にローズガーデンを訪れることができたことを嬉しく思う。満開であった。ここ以外にも、宮殿の敷地内では至る所で薔薇やラベンダー、野草などの花々を見ることができるので、ぜひのんびりと歩き回ってみて欲しい。可能であれば誰かと共に話をしながら散歩をしたかったと思う。

 かつてチャーチルはこれらの庭園で過ごした頃の記憶や、そのなかの大切な人々や出来事についてしみじみと語っている。そして私もいまこれを書きながら、自分の記憶の扉を開けて、同じように庭園の中を歩いてみているのだ。この1年でいろいろなことがあった。それでも、過去の醜く良くないものに決別をして、先へと進むということが素晴らしい経験であるという事実には全く疑いの余地がない。自分は自分自身が思っているよりも、ずっと逞しく成長できるはずなのだ。心からそう感じた。躁鬱の根本原因となった環境や人間と距離を置き、いま、本当にすがすがしい晴れやかな気分でいる。

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柔らかな白薔薇
  • 宮殿から丘の上へ

  疲れたら、何か食べるものも飲むものも付近で揃うので、気軽に休むことができる。私は一息ついてから丘を登った。ブレナム宮殿の正面から真っ直ぐ塔を目指して進んでいく途中で橋を渡ることになるが、これは記事の冒頭でも言及した建築家、ジョン・ヴァンブラの手によるものだ。この橋と宮殿、そして湖を見渡すことのできる位置から見る光景は「イングランドでも最も美しい風景のうちの一つ」であると称賛されている。

 頂上に行くために柵の内部に入るが、その全体には羊たちが放たれていて、静かに過ごししていた。季節柄なのか親羊と子羊が一緒に行動しているのが目に付く。いま私は静かに、と述べたが、正確には完全な無音ではない。かすかな、人間たちが草を踏みしめるのとはまた違った「ぶちぶちぶち」という音がときおり耳に入ってくることに気づいて、周囲を見渡し、それが羊たちの草を食む音なのだということに思い至った。

 それが本当に心地よく郷愁を感じさせたので、「音のソノリティ」(幼少期に見ていた、5分ほどの日本のテレビ番組なのだが)で取り扱ってほしいような気がする。

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 公式サイトによれば、ここに放たれている雌羊の数は約1550頭。そして毎年4月ごろに生まれてくる子羊たちはおおよそ2800頭であるのだという。たしかに1匹の親羊に対し1~2、多くても3匹の子供がその傍らに立っているのが確認できる。

 牧羊犬が仕事をしている最中の動画も見つけた。草地をかける羊たちの背中は、まるで緑色の布地に縫い付けられていく白い刺繍糸のようにも思える。6月ごろに刈られる彼らの毛は例えばロムニー・ウールの絨毯といったようなものに加工され、宮殿の中庭で売られることもあるそうだ。

 野生に近い状態で飼育されているのか警戒心が強く、一定の距離まで近づくとすっと遠ざかっていく。それでも至近距離で、柵を隔てずにじっと羊の動きを観察しようと試みるのは楽しい。彼らが進化し、家畜化されることを選ぶに至った過程を想像し、その何かを悟っているように静かな目や揺れる尻尾を見つめる。かと思えば突然コミカルな仕草でこちらを戸惑わせるような行動をしてくることも多く、本当に飽きない。特に、今年はイースター休暇中に南部コッツウォルズで牧場の側に宿泊してみてよくわかった。

 羊は、1日をその観察に費やすのに十分値する生き物である。

放牧とブレナム宮殿:Farming | Blenheim Palace

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 敷地内にあるものを軽く見ながら歩き回るのには、休憩時間などを考慮しても約半日ほどを費やす必要があった。体力もいる。例えば宮殿の持つ膨大な部屋のうちの一つを借りて1週間ほどここでのんびりと過ごしたいと思わないことは無いが、まず無理であるし、そこまで惹かれる選択肢でもないなと思い直して考えるのをやめた。

 いつか薔薇の咲くころにまた訪れて、目に映る景色とそれを受け止める自分自身の変化をしみじみと味わいたい。いちどそう思った。だが不思議なことに、その必要はもうないのかもしれないな、ということに薄々気が付いている、もうひとりの自分も私の傍らにそうっと佇んでいるのであった。