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いろいろ記録帖

ロンドンの片隅にある美術館、ウォレス・コレクション内で触れる古典絵画の世界

 もうすでに広く知られていることかもしれないが、ここイギリスでは、多くの国立の博物館・美術館の常設展示を基本的に無料で閲覧することができる。もちろん私も美術学徒としてその恩恵にあずかっているもののうちのひとりだ。調べたいことがあるときも特にないときも、彼らはいつでもこの身を快く受け入れてくれる――もちろん、休館日は除いて。

 なかでもウォレス・コレクション(The Wallace Collection)はロンドンにある類似の施設の中でも、ナショナル・ギャラリーやヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)などに比べると大きく取り上げられることの少ない美術館のうちの一つだと思う。その存在に気付かない旅行者も多くいるのではないだろうか。

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2階の絵画ギャラリー

 人知れずひっそりと佇んでいるようなミュージアムは他にもロンドンにあるが、ここはぱっと見ただけでは分からないその規模と豪華な内装、展示品の傾向(主に18-19世紀の西洋絵画+世界各国の甲冑+家具)などから、少しでもヨーロッパの文化や美術・工芸に興味がある人ならば、ふらりと足を運び気軽に楽しめる場所になるだろうというのが個人的な所感だ。目立つ外観ではないので見つけにくいかもしれないが、交通の便も決して悪くはない。地下鉄のBond Street駅(Central/Jubilee line)から歩いていくのが簡単だと思われる。

 ここにはこの美術館にまつわる幾つかの事柄と、久しぶりに訪問して感じた印象を写真とともに記載する。そして収蔵されている絵画の一部と関連して、過去に古典絵画の序列と解釈について学んだことも復習しまとめておこうと思う。

参考サイト・講義:

The Wallace Collection(ウォレス・コレクションのサイト)

Art Terms | Tate(テート・ギャラリーによる美術用語の解説ページ)

放送大学 美学・芸術学研究(’13) 第5回「美術」

  • コレクションの概要

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 時は1852年、英国はヴィクトリア女王の治世。1848年からその時間のほとんどをフランスの首都パリで過ごしていた第4代目ハートフォード侯爵は、ロンドンにあるこの屋敷をいわば倉庫や物置きのように、収集した美術品を保管しておく場所として使用していたのだという(私も、自他の作品を収納しておける場所が切実に欲しいと思っている。閑話休題)。

 彼が収集した品の殆どは仲介人を通してオークションで競り落としたものだった。そして現在のコレクションの展示品は、複数の歴代の収集者のなかでも、この4代目の趣向を最もよく反映しているものになっている。

 そんな彼には、アグネス・ジャクソンという女性との間にもうけた私生児がいたのだ。名をリチャードといい、4代目の生前はそのことを周囲に知られぬよう、出自を隠して彼の傍に付き従っていた。やがて彼は侯爵の遺言によって、フランスとアイルランドにあった複数の物件と併せた多くの美術品のコレクションを受け継ぐこととなったのだという。それが1870年のことであり、彼はその後すぐにロンドンのハートフォード・ハウス(これが現在ウォレス・コレクションと呼ばれている建物である)の借用権を購入した。

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 パリからイギリスへと多くの美術品とともに戻った彼は屋敷の改装を行った。というのも、コレクションを収めるのにハートフォード・ハウスは少々狭すぎるということに気付いたのが主な理由だったのだという。このとき建物の外観を赤レンガで覆ったのも彼の趣向だ。当時は東ロンドンのベスナル・グリーン・ミュージアムでコレクションを一般に公開していたこともあり、多くの人が足を運んだそうだ。

 さて、これらが現在のように国立の美術館として設立されたのは彼の死後であり、それはその妻であったレディ・ウォレスの尽力によるものといっても過言ではない。彼女は夫の遺志を継ぎ、自身の死に際して1897年に彼のコレクションを英国へと遺贈した。かつて行われた歴代の寄贈の中でも、最も規模の大きなものである、と後に称されたのがこれである。また寄贈にあたっては、既存のコレクションを館外に持ち出したり、外部から持ち込んだ美術品を新しく加えるなどのことはあってはならないとの条件が付け加えられた。

 やがて2000年の6月に、ウォレス・コレクションは国立の美術館として100年目の誕生日を迎えた。

コレクションの歴史:History of the Collection|Wallace Collection

  • 館内の様子

 比較的地味な、というと少々おかしく聞こえるが、周囲の静かな住宅街にすっかり溶け込んでいる赤レンガの外観の、この建物の中へ一歩足を踏み入れるとその絢爛さにまず驚く。ついこの前に訪れたのは雪の降っていた日だったので、暖かさも身に染みた。ちなみに荷物や上着を預けたい方は正面玄関から足を踏み入れてすぐ、左にある売店を通り抜けて突き当たりにある部屋に行くとよい。

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 もちろんこの場所は美術館として幾度かの増築や改装が繰り返されているため、かつての誰かがそこに住んでいた時分の状態を完璧に保っているというわけではない。しかしながら以前に大使館や住居として使われていたころの片鱗をちらりと垣間見ることはできる。

 例えばこちらはSmoking Roomと呼ばれている部屋の一角で、かつて壁のほぼ全面を覆っていたトルコ風の美しいミントンタイルがここに一部残されている。

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天使の彫像

 またそれぞれの部屋ごとに壁の色が異なっており、変化していく雰囲気が楽しい。意識していないと気付きにくいが、シャンデリアの形状や意匠も違う。

 甲冑やアクセサリー、陶器は1階のギャラリーに集中して展示されており、家具や絵画は全フロアを通して設置されている。特に2階のギャラリーでは異なる国や時代のあらゆる絵画を一度にたくさん見ることができるので、その辺りをうろうろしていると、まるである種の森や迷宮のただなかにでもいるような気分になってくる。加えてウォレス・コレクションのサイト内のページでは所蔵・展示されている作品について調べることもでき、ここで発見したお目当ての絵画の現物を実際に探しに行くため足を運ぶ、といったような楽しみ方もできるのだ。

 なお3階にはレクチャーシアターやミーティングルームなどもあり、いくつかのイベントも開催されている。事前の予約が必要なものが多い。そして館の中央には天井を広くとったPeyton & Byrneによるレストランが併設されている。そこでは頭上の窓から差し込む光が開放的な雰囲気を演出しており、アフタヌーンティーを楽しむこともできる。

  • 代表的な絵画

  私のお気に入りの絵画のうちの一つが見られる部屋はLarge Drawing Roomと呼ばれており、この建物の2階に位置している。美しい緑色の壁と黄金色の家具類が印象的なところだ。ここに展示されているオランダ絵画に目を向けてみよう。

 額に入れられた絵は、部屋の雰囲気に非常によく合っている。

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Still life with a Monkey

 絵の左下には猿が描かれており、このような形式は初期フランドルの静物画を模したものであると考えられている。並べられたロブスターや貝殻を開かれた牡蠣、切られた果物たちを「すでに死んでいるもの」たちという括りでとらえることもでき、生きているものとの対比が単純におもしろい。とはいえこの作品中の猿の描写は決して生命感を前面に押し出したものではなく、周囲の光景のなかにほとんど置き物のようにして溶け込んでいるようだ。

 1872年にコレクションへと加えられたこの作品は、オランダの画家ヤンスゾーン・デ・ヘームによって描かれたものだ。名前に聞き覚えがあると感じる方も多いと思うが、彼はかの有名なヤン・ダヴィス・デ・ヘームの息子である。私はこれらの事実を調べている際にだいぶ混乱した。なぜならばヤンスゾーンにはもう一人、コルネリスという兄弟もいたからだ。余談だが、例えばブリューゲル親子のように家族関係にある人間がいずれも芸術家である場合には名前が似ていたり同じであったりするということから、作品を確認する際には注意が必要なこともある。

 次はDining Roomを覗いてみよう。

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Dogs with Flowers and Dead Game

 こちらも扱っているモチーフは異なれど、上記の絵との間にいくつかの共通点を見つけることができる。後で解説を読んで気付いたことだが、この絵の作者であるフランソワ・デスポルテもまたヤンスゾーン・デ・ヘームと同じように、フランドル絵画の伝統を踏襲していた。しかしながらドラマ性のある構図と鮮やかな色遣いによって彼は自分自身の解釈をより強く示している。

 "Dogs with Flowers and Dead Game"と題されていることからも分かるように、中央に横たわるウサギや鳥たちは狩りの獲物なのだろう。それを囲む花々の奥からは一匹の犬が顔を出し、その頭上には青空を望むことができる。個人的に、ヘームの静物画からは全体的に死の支配する静謐さを感じるのに対し、こちらからは生きているものの生々しさが、息絶えた動物の体躯によりさらに際立っているかのような印象を受ける。まるで中央の死体を養分として周囲の花が咲き誇っているかのようだ。

 絵画のジャンルについては後述するが、私はその中でも静物画というものに強く惹かれる。よく考えてみると面白いと思うことがたくさんあるのだ。そもそも目の前にある日用品や食べ物を描写しようと一番初めに考えたのは誰なのだろう。それは何かを描きたい、という衝動の根源的な部分にもどこかで繋がっているような気がする。

  • 絵画の序列

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 コレクションの展示品に関連して絵の話をしてきたが、古典絵画の世界(主に16-19世紀)には、いわゆる主題によって定められた序列というものが存在していた。これが一体どのようなものなのかというと、何がそこに描かれているのかという判断基準によって、その作品の重要度を決定するといったようなものだ。具象絵画における序列に際してはルネッサンス期のイタリアでその概念が生まれ、やがてはフランスのアカデミーが特に強い影響力を持つに至ったとされている。

 ここで留意しておきたいのは、ある絵画の序列が低いからと言って、その作品が優れたものではないと判断することはできない、ということだ。繰り返すが、これはその絵画の主題が何であるのかということに対してあてがわれる序列であって、作品自体の出来/不出来には関係がない。つまり序列が上に位置している絵画でも、それより下位の序列の絵画よりも作品として劣っていると判断されるものがあるということだ。

 かつての絵画の主題はこのように分類されていた。

1)歴史画:神話や宗教などの主題を扱い、寓意的、もしくは道徳的な要素を持っているもの。

2)肖像画:身分の高い、高貴な人物を主題としているもの。

3)風俗画:社会的背景を元に庶民的な人物像を描き出しているもの。

4)風景画:人間のほとんど描かれていない自然を描いたもの。

5)静物画:食べ物や日用品などの無生物を描くもの。

 また、風景画と静物画の間に「動物画」というジャンルが挟まれることもある。

 これらの中で一番序列が高いのは歴史画であり、逆に一番低い場所に位置していたのが静物画であった。

 理由としては、絵画を読み解く際に二次的な解釈の必要な歴史画は多くの知識を必要とするとされていたために、最も重要視されたということがあげられる。絵画は現代に比べると学問的な要素の強さにより判断されるという側面が多かった。例えば風景画が風俗画よりも一段階下に位置しているのは、人間という複雑な要素を持つ主題を扱っていないと判断されていたことによるものだ。自然も人間も同じくらい複雑だと言いたくなるが、ともかくこれが当時の絵画の重要度を示す指標になっていたのだ。

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展示品の絵画たち

 これらの事柄を踏まえておくと、絵画鑑賞がいっそう楽しく興味深いものとなる。当時の時代背景や特定の作品が描かれるに至った経緯、芸術家とパトロン、社会の関係性などを考えるのにも大きな参考になるだろう。ちなみに英語版のウィキペディアにはこれに関する"Hierarchy of genres"という項目があるが、それらは未だ日本語に翻訳されていないようだ。

 参考にした放送大学の講義の中では、かのレオナルド・ダ・ヴィンチのとある言葉が引用されていた。それは「絵画を軽蔑するものは、学識をも、自然をも愛さないものである」というもの。すなわち芸術において世界の本質を抉り出そうとする試みは、他の学問が目的とするものと何ら変わりのないものであるということだ。私も自身の制作において、この言葉をいつも心の片隅に置いている。

絵画のジャンル:Genres – Art Term | Tate

  ここに掲載している写真や私の感想だけではウォレス・コレクションの雰囲気のほんの一部しか伝えることはできないので、ロンドンにこれから足を運ぶ方の中で、少しでもこれらの内装や展示物に興味のある方はぜひ、自分自身の足でこの施設を訪れてみてほしい。

 最後にひとつ。先日の3月17日はアイルランドの聖人の命日に際してパレードの行われる祝日「セント・パトリックス・デー」であったが、この美術館には、上のような美しいアイルランド人の女性が所蔵品の中に隠れている。背景の濃緑と椅子の赤色の対比が目に楽しい。

 この日には館内でのギャラリートークも行われていたようだ。機会を見つけて、他作品の解説も聴きに行ってみたい。

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 今回ここを訪れたのはほぼ一年ぶりのことであった。

 退館する際のお財布に少し余裕がある時は、今後も彼らが無料で文化的な財産を一般に公開することができるように、ぜひ寄付をしておきたいと思う。ウォレス・コレクションだけではない多くの英国内の美術館・博物館がこうしていつでも足を運び、自由に閲覧することができる状態を続けられるように。

 そして、未来へと学問と芸術の資産を残すために、作品の管理や保護にも常に手間とお金がかかっているということを意識の片隅に置いておくのは大切だと感じる。文化芸術だけではなく普段の生活の中で、自分がやらなくても平気でいられることは必ず誰かの手によって行われているのだ。

 ちなみに同じく旧貴族の邸宅を改装して公開されている美術館、ケンウッドハウス(入場無料)に関する記述はこちら。フェルメールの作品が展示されています: