memorandum

記録帖

英国湖水地方・バターミア:クリスマス休暇旅行①

 決して寒さに強いというわけではないのに、どういうわけかいつも北方の国や地域に心惹かれている。理由はわからない。

 気温や天候のせいかどうしても陰気であるという印象を持たれてしまう彼らの文化には自分の興味をそそるものが多く、英国内や他の欧州の国々、果ては日本国内に至るまで、機会があればいつも訪れたいと自分が思っている都市はたいてい北の方角にある。そのためか、自分の家系図を辿れば、祖先の主要な活動地域が寒冷地にあったということがいつか分かるのではないかという思索にふけったりすることもあるのだ。閑話休題。

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バターミア湖

 昨年の年末に訪れた著名な湖水地方はイングランド北部、スコットランドとの国境にほど近い場所に位置しており、実に素晴らしい景観を楽しむことのできる場所だ。湖だけではなくイングランドで一番高い山として知られているスコーフェルパイクもあり、自然の静けさと荒々しさの双方においしく触れられる。数多くの観光客が年間を通して足を運ぶようなところなので、今ではweb上で検索をかければ数多くの写真やそれぞれの人々の体験を見聞きすることができるが、それでもなお(むしろ、だからこそ)自分たちで実際に足を運んでみることの意味は大きい。

 私達の訪れたバターミアは湖水地方にある全ての湖の中でも面積が小さなもののうちの一つであるが、谷底にひっそりと佇む鏡面のような水はまるで隠れた宝石、文字通りの"Hidden gem"と形容せずにはいられない美しい佇まいであった。いわゆるベストシーズンである夏を避け、訪問客の少ない季節にそこへ行く機会を得られたことも幸運だったといえる。

 それでは遠くない再訪を願いながら、現地で実際に感じたことや後に調べてわかったことを書いていく。

参考サイト:

lakedistrict.gov.uk (公式サイト)

nationaltrust.org.uk (ナショナルトラストのサイト)

buttermereweb.co.uk (バターミア周辺ガイド)

visitcumbria.com (湖水地方の属するカウンティ・カンブリアの情報サイト)

  • 湖水地方の概要

 世界中の観光客を日々引き寄せている英国湖水地方は、実のところ昨年、つまりは2017年に正式に世界遺産として登録されたばかりなのだという。少々意外に思った。登録された範囲は現時点で国立公園(National Park)に指定されているエリア全体で、イングランドの中では最大の、そしてスコットランドにあるケアンゴーム国立公園の次に広い面積を誇っている。そもそもこの場所が国立公園として正式に指定された時期も1951年ごろと、さほどの昔ではない。

 世界遺産(その中でも文化、自然、複合という3種類の項目があるが)の審査は対象が推薦されてから認められるまでに最低でも数年の期間を要し、この湖水地方のように、当初(1987年)は複合遺産として登録の是非を問われていたものが最終的に文化遺産の項に収まるといったようなこともしばしばあるようだ。

 日本国民としては、現在は湖水地方と同様の文化遺産に分類されている富士山が2013年に晴れて世界遺産登録となったときのことを思い出す。……それでも、あれからもう5年もの歳月が経っているとは、にわかには信じがたい。

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美しい水音を響かせていた滝

 湖水地方の地形の形成は北から南にかけて行われ、現在みられるような地形が完成された時期は今からおおよそ5~4億年前のことであるという。その後に人類がこの地に居住し始めたのは少なくとも5000年前のことであり、新石器時代までには、湖水地方は有数の石斧の産地となっていた。

 また12世紀の初期には鉱石の採掘が行われていた跡があり、一部はローマ帝国の時代にまで遡ることができるようなものもあるそうだ。スレートや黒鉛、石炭、ヘタマイトなどが主に産出され、湖水地方のエリアに限らず、カンブリア全体で採掘場の数々を確認することができる。

 公式サイトには一般の人間が鉱石を採掘する際のガイドラインが掲載されている。採掘場におりて作業をするにあたっては、事前の申請と、実際に集めた鉱石の詳細についてきちんと報告することが必要だ。

湖水地方の地質学:

 余談だが、英語ではこの湖水地方を指す際にしばしば"Lakes"という呼称を用いることがある。しかしながら公園内で正式にLakeという言葉で呼ばれているのはたったひとつ、バセンスウェイトという湖だけなのだ(残りの湖についている称号はwater, mere, そしてtarnなどというもの。特にtarnはその中でも小さなものを指す)。

  • 戦争との関係

 序盤の方で湖水地方はスコットランドにほど近い場所にあると述べた。現代の政局を見ても明らかなように、この二国の関係は古来から少々複雑なものとなっている。

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これは要塞の跡ではなく、羊のための石垣

 ピール・タワー(Peel, もしくはPeleと綴る)という言葉を耳にしたことがあるだろうか。これは主にイングランドとスコットランドの国境に建造された、見張り台や防壁としての役割を果たす石造りの塔のことを指す。その壁は3から10フィートの厚さを持ち、塔の1階には窓が設けられておらず、専ら倉庫として利用されていたらしい。その代わりひとつ上の階には簡易的な台所や寝室があったようだ。屋根は見張りの際に人間が立てるよう平らに設計され、そこから招かれざる客人である敵軍に矢を放ったり、石のつぶてを投擲したりできるようにもなっていた。

 時はイングランド国王エドワード1世(1239-1307)の治世、彼はイングランドの規律をスコットランドにも適用させようという試みの中でカーライルに軍事基地を建設するなどの政策を敷いたが、スコットランド人たちはそれに反発し、抵抗した。武力を用いた争いが勃発し、それゆえこの二国の国境のそばに位置する湖水地方にも、複数のピール・タワーが建てられることとなったのだ。

 かつての彼らの戦いは多くの死傷者を出し、湖水地方の牧場や教会の多くが破壊され、寺院は灰へと帰した。しかしながら現代の湖水地方で景観を楽しみながら歩いている際に、その事実に思い至ることは少ないだろう。

 現存するピール・タワーのうちのいくつかは一般に公開されており、無料で内部に入り観覧できるものも多いので、こういった建造物好きとして次回はぜひ足を運びたい。カンブリアの情報サイトにはそれぞれの所在地が記載されている。

  • 目的地に到着するまで

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ケズウィックにあるパブ

 今回利用した交通手段は車だったが、主要な都市(ロンドンやマンチェスター等)から公共の交通機関を利用してバターミアを訪れようとする場合には電車とバスを何度か乗り継ぐ必要があり、お世辞にも気軽に訪れることができる場所とはいい難い。湖水地方のなかでも北西の端の方角にあるというその立地も原因のうちのひとつだと感じる。

 しかしながら訪問客の少なさはその土地を静かな状態に保つ手助けとなっており、観光地化された雑多な印象も少なく、個人的には多少の苦労をしたとしても訪問する価値のある場所だと思っている。

 実際に旅の計画を立てる際には、以下のページが参考になるかもしれない。

 私達の宿泊していた場所、ヨークシャーデイルズ南西の端から車でまず向かったのはケンダルという湖水地方の南に隣接している街で、ここのAsda(イギリスのスーパーマーケット)で昼食のサンドイッチや水を購入した。その後は湖水地方最大の湖があり、複数の鉄道が乗り入れるために観光の拠点ともなっているウィンダミア(ちなみにここはイングランドの中でも最大の面積を誇る湖である)を経由してケズウィックの街へ。ここからもダーウェントウォーターという湖をのぞむことができるが、ここはかの著名な児童書、ピーターラビットの作者であるビアトリクス・ポターが夏の休暇を湖畔で過ごした場所としても有名だ。

6月7日 追記:

 2018年3月にイギリスでもピーターラビットの実写版映画が公開されており、上映が続いている。英国湖水地方を舞台としながらも撮影の多くはオーストラリアのシドニーで行われたが、一部のシーンではここウィンダミアや、アンブルサイドの町にある玩具屋のイメージが使用されている。

 ダーウェントウォーター湖には4つの島が浮かんでおり、そのうちのひとつであるLord's Islandはかつてダーウェントウォーター伯爵の居住地として利用されていた。今でもその廃墟の跡を草木の茂みの中に見ることができるらしいが、遺跡と水のある風景に興味を持っている身としてはたまらないものがある。またさらに7世紀まで遡ればSt. Herbert Islandにも隠者が住んでいたという記録が残っており、この島の名前は彼にちなんでつけられたものなのだそうだ。

 こちらは公式Instagramに掲載されている幻想的な島の写真。

 ふと立ち止まって考えてしまう。ここで実際に生活を送っていた人間は、日々どのようなことを感じていたのだろうか。かつての湖水地方は今以上に静かな場所であったのだろうということだけがぼんやりと想像できるけれど、頭の中の湖畔ではただ空気が澄み、他に人の影もなく……それゆえ、ほんの少しの恐怖を感じずにはいられない。

ダーウェントウォーターについて:Derwentwater - Visit Cumbria

  • バターミア(Buttermere)

 そこから目的地に至るまではいくつかの細い滝に遭遇したり、霧のけぶる冬の静かな道を楽しみながら進んだ。至る所に羊たちがいた。氷河活動によって形成された切り立った崖や起伏の多い地形(それゆえ湖水地方にある湖は細長い形状をしているものが多いのだ)は、ロンドンで生活している私の持っていた、イングランドという国に対する印象を心地の良い驚きと共に書き換えていった。

 谷のなかごろに車を停め、教会や牧場(付近には非常にかわいらしい、首輪をつけていない犬が歩いていた)を過ぎてゆくと、そのうちにFish Innという看板を掲げた建物が見えてくる。その左に歩道への入り口が伸び、突き当りまで歩けばそこはもう湖のほとりだ。

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 手前では迷い込んできた2匹の羊を近くで見ることができた。野生なのかと一瞬思ったけれど、背中に印があったのでおそらくは違う。はやくおうちに帰ったほうが良いよ君たち。

 コッツウォルズ北部について記載した記事で言及したように、イギリスには多くの羊たちが生息しており、現代に至ってもその景観や産業に少なからず影響を与えている。今回はここに、湖水地方と羊の関係にまつわる言葉を引用しておきたい。

“A lot of people, particularly visitors, think the Lake District is natural. It isn’t. It is a managed environment and the management is done by these sheep.”

by Keith Twentyman

「多くの人々、特に観光客は『湖水地方は手つかずの自然である』と考えがちだが、実はそうではない。その環境は巧みに管理されており、その管理者というのはこれらの羊たちのことなのだ。」

 私達の出会った2匹は道に迷っていたのではなく、番人としての役割を果たそうとしていただけなのかもしれない。

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  湖は穏やかに澄んでいた。太陽には恵まれなかったけれど幸いにも雨は降っておらず、その水面(みなも)を揺らすものは風だけだ。正直なところ、言葉と画像で伝えられることは多くない。本当に静かなところで、空気によって肺は洗濯され、スーパーで買った何の変哲もないサンドイッチが幾分かおいしく感じた。長い時間をかけて形成された稀有な地形、その合間にたたえられた水がただ在るだけで、言ってしまえばそれ以上でもそれ以下でもなく、だからこそこの場所は美しいのだ。

 バターミアは湖水地方に点在している湖の中でも最も小さいもののうちの一つだと前述したが、具体的な大きさがどのくらいなのかというと、おおよそ2キロメートル×0.57キロメートル程度であるとのこと。その北に位置するクロマックウォーターのほうがより大きい。彼らはバターミアの谷底で隣り合うように並んでおり、形も似ているせいか「双子」のように扱われることがある。

 他の湖に比べて1周するのにさほどの時間がかからないので(ナショナルトラストのサイトでは長くても3時間ほどと紹介されている)、気軽にウォーキングを楽しみたい人におすすめだ。付近では小さな滝なども望むことができる。ただし4月から6月の間にはシギ(鳥)が巣作りをするのを助けるために人間の立ち入りが制限されることがあるので、事前の確認が欠かせない。

  • 美術作品との関係

  最後にこのバターミアと、私の専攻に関わる絵画という分野の間に存在していたとある関係について少し記述しておこうと思う。

 ロンドンに生まれた画家ウィリアム・ターナー(1775-1851)によって描かれた下部の絵はロンドンのテート・ブリテン(国内でも有数のターナー・コレクションを見ることのできる美術館)に現在展示されているもので、タイトルの日本語訳は《バターミア湖、クロマックウォーターの一部、カンバーランド、にわか雨》とされることが多い。まさに私達がこの冬に足を運んだ場所、その湖を含んだ風景を描いたものなのだ。

 実は、この絵は2013年に、日本の東京都美術館で展示されていたこともある。

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www.tate.org.uk

 ターナーの残した代表的な風景画の数々が持っている特徴は、その劇的に演出された光と空気の描き方であるということができる。18世紀末に欧州で興ったロマン主義(ロマン派)の運動とその流れに属する絵画には感情的・躍動的な表現が多くみられ、例えばこれと対照的な新古典主義を代表する画家ドミニク・アングルの描いた《泉》を「静」と定義するのであれば、ロマン主義の画家ドラクロワの《サルダナパールの死》はきっと「動」に属することになるだろう。やがてロマン主義に呼応し対立するような形で、クールベの提唱した写実主義や、バルビゾン村の周辺で盛んになった自然主義の運動(エコール・ド・バルビゾン)も後に続いていくことになる。

 バターミア湖の絵をもう一度見てみよう。後景の山々は空と雲に、陸地が落とす影はその水面に、ほとんど溶け込むようにして描かれている。タイトルが示唆するように、やわらかな雨とそれによって霧がかかったように表情を変える山と湖の景色が画面上へと表れており、差し込む光と一筋の虹はまるでそれらを映画の一場面から抜き出してきたかのようだ。

 1819年にイタリアを訪れてからというもの、初期はいわゆる写実的な作風であったターナーの絵画とその関心は、専ら光や空気といった抽象的な要素を描くことへと向けられることになった。そのためか当時、彼の作品はしばしば「ものの輪郭が曖昧で何を描いているのかわからない」などと酷評されたそうだ。しかしながら幾年もの時が経過したいまでも、現代的な絵画鑑賞の仕方にたえるだけの魅力を持った絵画をその当時に発表していた、という事実は驚愕に値する。

 ちなみにターナーの絵の中で私が最も気に入っているものは《戦艦テメレイル》であり、実家の部屋の本棚にはそのポストカードを収めたファイルがひっそりとしまわれている。

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 その種類や目的にもよるけれど、やはり経験したことを文字にして残しておくのはよいことだと思った。文字や筆記具のおこりとそれらの発展の歴史には、脈々と受け継がれている「記録するということ」への渇望がきっとある。何かをせずにはいられない、という衝動そのものを自分は大切にしたい。それがすぐに役に立つとか、立たないとか、そういうことだけではなくて。

 昨年冬の旅の思い出は、この次にヨークシャー・デイルズ国立公園(指定されている範囲の一部の地区が湖水地方と同じカンブリアに属している)を訪れ、帰りがけにリーズという街へと立ち寄るところまで続きます。後編はこちら: